家纹篇(2 / 2)

土佐之梦 周元祀 3156 字 6个月前

【梅鉢】

前田家一族の纹章として広く知られている。素型は六曜星纹から天神纹へ変わり、利家の晩年顷に轴付きの梅鉢纹が生まれている。三代利常に及んで、本?支を明らかにするため剣梅鉢、丁字梅鉢などと多様化した。大和の筒井氏も天神信仰により梅鉢纹を使用。

【丸に三つ鳞】

镰仓幕府执事権北条氏の家纹として有名。戦国以前、早くも‘蒙古袭来絵词’のなかに鳞纹は现われている。前北条氏の灭亡后、伊势新九郎が小田原に入り、北条早云を名乗る。以后、后北条氏一族の家纹として袭用、さらに拡充をみる。

【立ち沢泻】

‘见闻诸家纹’には越中松仓城主の椎名氏が用いたとみえている。豊臣秀吉の马标が有名。木下氏の出自だったからといわれる。木下の亲族福岛正则も立ち沢泻を用いた。このほk、大名家としては毛利、水野、土井、浅野、奥平、酒井氏その他が使用している。中国の戦国武将毛利元就が敌を追って川辺に至ったとき、水际に生えていた沢泻にカゲロウが止まっているのを见、“胜ち草に胜ち虫あり”と全军を励まし大胜を収めた话は有名。

【梶の叶】

诹访明神の神纹として有名。‘羽継原合戦记’では、信州诹访付近の豪族下条、山辺氏らがみえる。神官の出自をもつ梶、神、祝、金刺、矢守、茅野氏など、いずれも梶の叶纹。大祝の出自をもつ诹访氏は、上原城にあったが武田信玄の攻撃を受け灭亡。のち一族が徳川氏に谊を通じて诹访高岛城へ返り咲く。所领三万七千石。

【丸に三つ叶柏】

‘见闻诸家纹’には、热田大宫司の千秋氏をはじめ、宗像大宫司氏郷、神谷、雀部、尾林、竹内、山内、水原、朝日氏などがみえる。山内氏の场合、一豊の父盛豊は织田氏に仕え、丹波の合戦のとき柏の枝を旗指物にして奋戦。胜利したとき枝に残った叶が三枚だけだった。よって三つ叶柏を家纹にしたと‘土佐山内系図’に伝えているが、事実は山内一门の柏纹ははるかに古い。足利义満と远祖山内猪右衞门が戦ったとき、すでに柏の指物があったと‘别本山内系図’に伝えている。また、奥羽の葛西一族も三つ叶柏纹を使用。

【酢浆草】

‘见闻诸家纹’には、小田又次郎知宪、肥田助太郎政秀、中沢、多贺、赤田、平尾。长宗我部氏がみえる。三つ叶の间に剣を配した武家好みのデザイン“剣酢浆草”はこのあと、戦国期に入ってからであろう。徳川氏関系の戦国大名では酒井、森川氏などがある。

【丸に唐花菱】

‘相国寺供养记’には、武田信在が红直垂に违い菱の缝い纹をつけていたとある。‘长仓追罚记’には、大内介が唐菱。甲斐武田と若狭の守护は武田菱。菱鹤は南部纹。坂西は丸に松川菱。赤沢は松皮菱に十文字。远州の小笠原も松皮菱などとみえ、武田一门がベースとなっている。‘见闻诸家纹’には武田氏の松皮菱、唐花菱。小笠原氏の三阶菱。大内氏の唐花菱。秋山氏の松皮菱などがみえる。

【一つ远雁】

‘见闻诸家纹’では、井上右京亮贞忠の二つ远雁。违い远雁が小串氏、进藤氏、阿波の大西氏。菊水に二つ远雁が大芋氏。笹竜胆に二つ远雁が和州の越智氏。丸に三つ远雁が高宫氏。カコの内一つ远雁が高安河内入道永隆と饭尾左衞门大夫之种。‘永仓追罚记’には、远雁金は安部殿。水に雁は小串五郎とある。信州では、滋野氏の流れを汲む海野、望月、祢津、真田氏らが雁纹。また同じ信州で、このほか井上、赤井、上林、山口氏らが同纹である。

【桔梗】

“土岐の桔梗一揆”といわれるように、桔梗のシンボルのもとに団结した土岐氏一族は美浓に威势を振るった。‘见闻诸家纹’でも土岐氏の存在が明らかである。织田信长を倒した明智光秀、秀吉に忠节を尽くした加藤清正などいずれも土岐氏族と伝えられる。また、相模の太田氏は多田氏族の出自をもつが桔梗纹。太田道灌が有名。末裔の重正のとき家康に仕え、のち远江挂川五万二千石。

【丸に抱き杏叶】

‘见闻诸家纹’では、大友豊后守亲繁、摂津修理大夫之亲、田村氏、安芸の毛利氏(替纹)、饭河远江守、崎和筑前守などが抱き杏叶纹。近江の目贺田氏が三つ盛杏叶。芸州の厳岛氏、大野氏、温科氏などが杏叶九曜。大友氏は相模出身の豊后守护だが、一族や有力家臣にも与えて同纹の衆として优遇した。立花氏も大友一族として同纹。元亀元年龙造寺氏が大友宗麟を破り杏叶纹を家纹とする。のち、龙造寺氏を断絶させて杏叶纹を夺ったのは重臣锅岛氏。

【五七の桐】

足利尊氏が后醍醐天皇から下赐されて以来、足利幕府は一族の吉良氏、一色氏をはじめ、管料の畠山、细川氏をはじめ勲功のあった三好义长、松永久秀、上杉谦信、大友宗麟らに下赐。最后の将军足利义昭も前例にならって、织田信长へ与え、信长もまた秀吉?家康らに与えて优越感にひたる。今日の勲章にも似た価値観があったものか。

【军配団扇】

‘见闻诸家纹’では、粟生田次郎左衞门尉経行、矢岛、真下、富田氏らがみえている。これらはいずれも武蔵を中心とする児玉党の出自をもつ。三河出身とする奥平氏も児玉党といい、军配団扇纹。

【洲浜】

‘长仓追罚记’には、常陆の宇都宫氏族の小田の大辅の名がみえ、‘见闻诸家纹’には、安芸の宍戸氏をはじめ陶山氏、越智氏族の寺町氏や伊庭氏、茨木氏がみえる。云州佐々木の吉田氏は三つ盛洲浜纹。松代の真田氏も一つ洲浜纹。

【违い鹰の羽】

‘见闻诸家纹’では、栏干丸に鹰の羽の町野左近将监敏康、并び鹰の羽の菊池氏。违い鹰の羽の后藤左京亮、抱き鹰の羽に二つ引両は美马氏、三本鹰の羽の稲毛氏。摂州の太田氏は一つ引両に违い鹰の羽、加州の仓光氏は五本鹰の羽、中村氏は丸轮に违い鹰の羽、福井氏は违い鹰の羽がみえる。‘长仓追罚记’は菊池氏だけ。戦国末期に土岐氏族の浅野氏が违い鹰の羽を用いた。

【竹に雀】

‘见闻诸家纹’では、竹の丸に亀甲の朝仓下野守、三本竹の粟饭原氏、竹の丸に雀の上杉氏?箸尾藤徳丸、违い竹の河村氏、竹の丸に桐は明石越前守?上神氏?大鸟氏などがみえる。竹に雀纹は、上杉氏から长尾氏?伊达氏へと伝わっていった。その伊达氏はまた最上氏へと分譲している。

【橘】

‘见闻诸家纹’のころ(応仁末年=1468~文明二年=1470までの间に成立)では、武家の间に多くみあたらない。薬师寺扫部助元隆の三つ橘纹と小寺藤兵衞尉の三つ橘に藤巴が记载されている。戦国末期に台头する井伊氏の橘が有名。また山中鹿介も橘纹をしようしていた。

【丸に茑】

椎名氏、富田氏などのほか、高安河内入道永隆の纹が‘见闻诸家纹’にみえる。戦国末期に台头した六郷氏や藤堂氏が茑纹を用い、徳川一族の松平诸家のほとんどが茑纹。しかし、応仁の乱直前のころの合戦をモデルに书かれた‘永仓追罚记’には茑纹がない。従来、茑は葡萄の叶から考え付いたのではないかというが、それはおかしい。理由がわからない。ひとつの私见としてあげれば、足利氏の桐纹の下赐が、次第に直接的ではなく、多くは赔臣的立场への派生を帯び、そのまた家来へと枝条的となっていったため、桐纹泛滥を避けるデザイン的知恵が生まれたのではないだろうか。つまり至尊をはばかり、桐纹の下部の叶だけを残し、上の花を除いてその部分を叶に変えれば、桐纹が一転して茑の纹となる。まだ花咲かぬという谦譲の精神をこめ、末梢的系谱の人々へ与えたのではないだろうか。

【鹤の丸】

‘见闻诸家纹’では、楢叶左京亮の対い立鹤、佐脇五郎明房の云月に舞鹤、波々伯部彦次郎贤豊の松喰い鹤、大和氏?远江の蒲生氏の二つ引両に対い立鹤、石川氏の飞び鹤がみえる。‘永仓追罚记’には高井左衞门尉の松に鹤、南部氏の菱鹤、近江御门の后裔葛山备中の庵の内対い鹤などがある。戦国末期には、诹访氏や森氏の鹤の丸などがある。

【三つ巴】

古代に海の彼方から渡来したデザインである。‘见闻诸家纹’には、曽我氏の云に左三つ巴、赤松兵部少辅の二つ引両に左三つ巴、宇都宫氏の右巴、小山氏の左巴、杉原氏の角巴、香河五郎次郎和景?越后の长尾氏の九曜巴、山田道祖千代丸の鳞巴、丸豊前七郎朝达の三つ盛巴、芝山三河守持嗣の三つ积み巴、山下左京亮の桝形に右三つ巴、金山氏の一つ引両に并び巴がみえる。その他、厳岛?大野?温科氏らの替纹として右三つ巴がある。武神として尊敬を集めた八幡宫の神纹であった巴纹は、武家社会で人気があったことはいうまでもない。

【丸の内二つ引両】

二つ引両は足利氏の代表纹。引両纹は幕纹からの転移といわれるが、その起源については明らかではない。‘见闻诸家纹’によると、吉良、渋川、石桥、斯波、细川、畠山、上野、一色、山名、新田、大馆、仁木、今川、桃井、吉见氏ら一族や阁僚メンバーがみえるほか、他纹と组み合わせたものに、赤松、三浦介、远山、富永、长野、庄、吉川、波多野、神保、三渊、蜷川、川原、中沢、饭川、安木、大和、绮(Kawata)、黒坂、平尾、金山、物部、矶谷、三木、西面氏などの武将にみえる。

【下り藤の丸】

藤原庶流を名乗る武将の家纹である。加藤、佐藤。斎藤、近藤、首藤、进藤、武藤、尾藤、后藤……など庶流が用いた。‘见闻诸家纹’では、讃岐の大野氏、摂津の伊丹氏、河内の由佐氏、美浓の伊贺氏、播磨の小寺氏、近江の箕浦氏などがみえる。‘永仓追罚记’では、越中の神保氏、三河の铃木氏その他がある。

【三つ星に一文字】

三つ星は大将军星?左右将军星の三つを指すので三武、武神としての信仰がある。一文字はカツと発音するので武威をシンボル化して造成された。‘见闻诸家纹’では、本郷氏、渡辺氏、飨庭氏。一文字三つ星は、长井?毛利?竹藤?萩?绮氏。三つ星に吉の字は毛利氏。三つ星に一文字は、渡辺?曽祢崎氏が用いた。

【隅立て四つ目结】

近江の佐々木一族の代表家纹として有名。‘见闻诸家纹’では、佐々木大膳大夫入道生観の四つ目结。二松?饭田氏の三つ目结。本庄氏の九つ目结、武藤左京亮信用が寄挂り目结、椎屋氏が四つ目结、本间氏が十六目结、能势氏が丸に十二目结纹とある。なお、佐々木氏の流れといわれる宇多源氏の武将京极?建部?亀井氏らも四つ目结。近江を出自とする尼子氏が七つ割り平四つ目结。越中の佐々氏は滋目结を用いた。

【织田木瓜】

もともとは海の彼方から渡来した贵族纹だが、武家社会に広く普及した。织田信长の家纹として有名だが、もとは朝仓氏の陪臣的家系だった。したがって朝仓氏も同纹。‘见闻诸家纹’では、木瓜に二つ引両の富永氏、六つ木瓜の尾张守政长の被官游佐河内守、二つ木瓜に庵の海老名与七政贞、并び木瓜の岩城中务丞宗直、五つ木瓜の宫氏、大平氏。さらに、四つ木瓜の八木氏、大田垣氏、池田充正。三つ盛木瓜に二つ引両の三木氏などがみえる。

文中にひいた‘见闻诸家纹’は、一名を“东山殿御纹帐”ともいわれる通り、室町幕府八代将军足利义政の顷の将军家を初めとして、守护大名から国人层に至るまでの诸家二百六十ほどを次第不同に収録したもので、武家家纹の研究には欠かせない史料としてつとに有名である。

また、‘永仓追罚记’は‘羽継原合戦记’ともよばれたもの。これの原典となる‘永仓状’には家纹のことは记されていないという。しかし、纹章武将名についてみるとき、‘见闻诸家纹’に比べて劣ることは否めないが、内容的に大过がないのではないかと考え、暂定的参考书にとりあげた。